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アレグザンダー・マッケンジー (作曲家) : ミニ英和和英辞書
アレグザンダー・マッケンジー (作曲家)[いえ, け]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [さく]
  1. (n,n-suf) a work 2. a harvest 
作曲 : [さっきょく]
  1. (n,vs) composition 2. setting (of music) 
作曲家 : [さっきょくか]
 (n) composer
: [きょく, くせ]
 【名詞】 1. a habit (often a bad habit, i.e. vice) 2. peculiarity
: [いえ, け]
  1. (suf) house 2. family 

アレグザンダー・マッケンジー (作曲家) : ウィキペディア日本語版
アレグザンダー・マッケンジー (作曲家)[いえ, け]

サー・アレグザンダー・キャンベル・マッケンジーSir Alexander Campbell Mackenzie :en:Royal Victorian Order」は、:ja:ロイヤル・ヴィクトリア勲章 とリンク -->" TITLE="KCVO">KCVO 1847年8月22日 - 1935年4月28日は、スコットランド作曲家指揮者教師。最も知られるのはオラトリオヴァイオリンピアノのための作品群、またスコットランド民謡や舞台用作品である。
マッケンジーは音楽家一家の生まれで、音楽教育のためにドイツに送られた。彼は90以上の作品を作曲して作曲家として大きな成功を収める傍ら、1888年から1924年までは王立音楽アカデミーの運営に注力した。パリースタンフォードと並び、19世紀後半のイギリス音楽のルネッサンス〔訳注:19世紀後半から20世紀初頭にかけて、主に王立音楽大学で学んだ音楽家たちがヨーロッパ音楽からの影響から解き放たれ、自国の語法をもって大陸の音楽に引けを取らない作品を生み出した時期を指す。(English Musical Renaissance)〕の立役者の一人と見なされている。
== 生涯 ==

=== 幼少期 ===

マッケンジーはエディンバラに生まれた。アレグザンダー・マッケンジーとその妻ジェシー・ワトソン・(旧姓)キャンベル(Jessie Watson ''née'' Campbell)の間の長男であった。彼は一家で4人目の音楽家だった。祖祖父は陸軍のバンドマン、祖父のジョン・マッケンジー(John -)はエディンバラとアバディーンヴァイオリニスト、父もヴァイオリニスト、エディンバラ王立劇場〔訳注:エディンバラには王立劇場と名のつく劇場が歴代4ヶ所あった。時代を考慮すると1769年にプリンセス・ストリート(en)に開場した初代のものと思われる。(Theatre Royal, Edinburgh)〕の指揮者であり「スコットランドの伝統的舞踏音楽 ''The National Dance Music of Scotland''」の編者でもあった〔"Alexander Campbell Mackenzie, August 22, 1847 – April 28, 1935", obituary, ミュージカル・タイムズ, Vol. 76, No. 1108, June 1935, pp. 497-502.〕。マッケンジーは早くから才能を示した。8歳の時には夜な夜な父のオーケストラで演奏していたほどである〔。彼は音楽教育を受けるためドイツへと出され、テューリンゲンシュヴァルツブルク=ゾンデルスハウゼンの音楽家であるアウグシュト・バーテル(August Bartel)の元に住んだ。ここで彼は音楽院に入学し、K. W. ウルリッヒ(Ulrich)とエドゥアルド・シュタイン(Eduard Stein)の下で1857年から1861年にかけて研鑽を積み、またヴァイオリニストとして公爵のオーケストラに入団した〔。
マッケンジーは父の師であったプロスパー・セイントン(Prosper Sainton)に付いてヴァイオリンの勉強を続けたいと希望しており、1862年に念願かなってセイントンが教鞭を執っていたロンドン王立音楽アカデミーに入学することができた。彼が習ったのは他に学長であったチャールズ・ルーカス〔訳注:1808年生まれ、イギリスのチェリスト1859年チプリアーニ・ポッターから学長職を引き継ぐ。(Charles Lucas)〕(和声学)とフレデリック・ボーウェン・ジューソン(Frederick Bowen Jewson)(ピアノ)であった。アカデミー入学直後に、彼は国王奨学金を得ることができた。マッケンジーはさらに劇場やミュージックホールのピットバンド、また指導的指揮者であったマイケル・コスタ〔訳注:1808年イタリア生まれ。イギリスで成功した指揮者、作曲家。イタリア時代のミケーレ・コスタより改名。1869年ナイトに叙された。(:ja:マイケル・コスタ (指揮者) とリンク -->" TITLE="Michael Costa">Michael Costa)〕の指揮する演奏会で演奏し、収入を増やした〔''The Times'' obituary, 29 April 1935, p. 16〕。このため彼は時おり勉学を後回しにしてしまった。ある時、ピアノの試験のために曲を練習していくことができず、彼は即興で演奏することになった。「イ短調で始まり同じ調で終わるように気をつけた」その演奏を聴いて、試験官はあまり知られていないシューベルトの作品だと信じたのだった。後年このいたずらを思い返して、マッケンジーはこう付け足している。「あんなに逃げ回っていたことに自分でも驚くよ。今の学生に同じようなリスクを犯すことは絶対に勧められないな〔。」マッケンジーの初期作品にはアカデミーで演奏されたものもあった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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